昭和49年05月20日 朝の御理解
御神訓 一、「信心する人の真の神徳を知らぬこと。」
信心を頂いておりましても、真の神徳とはどう言う様なものかと言う事を知らぬ人が多い。いや知っておっても、真の神徳を受けると言う事が信心です。金光様の信心によっていわゆる真の神徳を受けると言う事。その真の神徳を受けなければ、本当の人間の幸福と言う様な事は考えられない。是は御神徳と、真の神徳と言う事については、非常に範囲が広いのです。大きく言えば、いわゆる天地の徳とでも申しましょうかね。私共が神徳の中に生かされてあるとおっしゃる、これが真の神徳です。
私共はこれは信心を頂こうが頂くまいが、信心が篤かろうが薄かろうが、誰しもが御神徳の中に浸っておる。御神徳の中に生かされて生きておるのだ。是はそれを大きな意味で神徳とこう言う。だからそういう例えば大きな御神徳の中に生かされて生きておってもです。所謂生かされて生きておるんだとその実感というものがね、御神徳を愈々尊ぶとか、有難いと思わせて頂けれると言う事は、話を聞いて、成程御神徳の中に私共が浸っておるなあと言う事だけでは大した事ないのです。
その御神徳が自分の身の上に、自分の周辺に、ありありとこう感じ、受け取られるというおかげを頂かなければ。言うならば成程何時も天地がバックだなと、何時も私の周辺には天地がもう御神徳の現われというか、働きが感じられるなというそこの所を頂いた人を御神徳家というふうに言うのじゃないでしょうか。「あちらは中々神徳が高い」と。だから、その神徳を頂かなければならなんのです。
信心さして貰うのは、神徳を知っただけではなくて、神徳を頂いて初めて、本当の神徳を知る事だが出来ると言う事が言えます。だから大きな意味においてそれはよく言われます。特に教学者なんかの方達の場合なんかは、教学と神徳が対立するような場合がありますね。けれども私は本当に神徳を受けて、そして教学が出来たら大丈夫。いいですね。昨日初めて私は、こういう大きな御取次をさせて頂いたんですけれども、ある五十二年までもかかるというトンネルの工事を請け負っておられる方が。
去年までに済んだので、何億という出血赤字になった。それで上の方から今度の工事を受けてそれを取り戻さなければならない。と言うので信用がある方ですから、そういうふうになった。今度失敗したら愈々駄目だと。五十九億という仕事だそうです。先日奥さんと二人で見えられました。ある教会でもう若い青年会の時代から信心をしておられる方なんです。それがそう言う事になりましたから、もう一生一代の大仕事として、今度は言わば前の赤字を取り返す。
それは何と言うても土木の事ですから、天地の働きを頂かなければ出来ない訳です。この頃愈々もう、出来上がる間近に長雨でね、算盤に入れてなかった所が赤字になったんだそうです。今度という今度は、もう五十二年までにそれを完成する。そして前の言うならば赤字を取り戻せと、上の方からも親切に言うて頂いて、またそれを受けることになった。昨日はお父さんの後を継がれるのでしょう、大学の土木関係の大学に行っておられる息子さんと二人でお参りになりました。
若い時から青年会なんかで、色々な高橋正雄先生のご本を読んだり、お話を頂いたり、随分研究したんだとこう言う。その方が丁度見えました時に、ここで私が頂いておったことはね。『元々学問とは、それに対する情熱を冷却させるものである』と言う事を頂いたんです。「元々学問というものはです。それに対する情熱を冷却させるものだ」と。学問というものはそんなもんなんです。これは信仰だけのことじゃありませんと思うです。信心でもそうです。
学問の方から頭の方から入ろうとすると、どうしても理屈立ってくるのです。そしてです。例えば先日秋山さんが言っておられるように、こういう難儀に直面しながら、この有難いというものがどこから湧いてくるか判らんという有難さ。久留米の佐田さんが、火事に遭われた。そしてその、それが嬉しいと言った表現が一番当たるような、嬉しゅうして、有難うしてとういうような気持ちがどこから湧いてくるか分からん。
理屈じゃないのです。佐田さんあたりは、ああいう災難に遭いながら、ああいう有難いものがどこから生まれてくるだろうかと言うて、秋山さんは一日かかったとこう言うのである。そしてお参りをしお話を頂いて、お話でああそうかとお話の理屈が判ったから有難くなったのじゃない。フッとどこからか湧いてくるもの、それが所謂生き生きとした言うなら次の働きを呼ぶことになる。
だから教学者には、有難いとか勿体ないとか恐れ多いとか言う様な、言うなら情感というものが、段々勉強すりゃ勉強する程少なくなって来るもんだと。元々学問とはそれに対する情熱を冷却させるものだと。有難いと例えば思うておっても、学問の方が入ってくるとね、その有難いというものはもう冷たいものにしてしまうと言う事です。だからそう言う所からの神様という神様は大した働きを受け止める事が出来んのです。問題は「有難い」と言う心で受け止めるのが金光様の御信心ですからね。
だから理屈の多い人や人情の強い人は、所謂今日の真の神徳に触れられないです。人が笑おうが謗ろうが、それこそ神様の仰せには背かれんというような生き方一途に行く人でなからなければ、御神徳には触れられん。そういう御神徳に触れて初めて、天地の大きな意味での御神徳もまた腹で、その御神徳を実感するということが出来るのです。昨日のその方に私申しましたが、「これからはね、お仕事をなさる。
さあ右か左かという時には、一つ一つ御神意を頂いて、御神意のままに動かれたら、五十二年にそれが完成した暁には、こういう広大なおかげを頂いたと言う事になりましょう」だから出来るだけ昨日は、非常にそういう息子さん大学出の息子さんの、連れて来ておられたからでしょうか、そういう意味でまあ言うなら非常に徹底した御理解を頂いた。大変喜んで帰られました。
今まで頭で考えておった神様というものを一遍捨てて、そして本当に体験から生まれて来る所の信心、その体験というのはです。矢張り神様任せここではそれを親先生任せと言った様なふうに言う。是からのお仕事の上に、どうでも一つ、そういう神徳の天地の言うならば御神徳を受けて、五十九億からの仕事というその仕事に取り組まれる事になったらいいでしょうと言う事で御座いましたがです。
所謂その学問というものはです。理屈を言うからです。その信心の情熱が冷却してしまうように、人情もそうです。人間心だからもうどんなに行き届いた人であってもです。人間心の強い人は、人の信用はついても神様の御信用はつかんです。ちっとあの人はボヤッとしてござるとか、あの人はどうした気のつかん人じゃろうかと言う様な人がです。却って、言うならば霊徳面には触れて行きますですね。霊徳からそして神徳にまた進んで行く訳ですけれども、私共もどっちかちゅうたら、神経が細い方でまあ言うならば、気の利いとるとちゅうです。
所謂人間心が強いだから行き届いとると言われた。その行き届いておる考えは持ちながら、それを殺して行く。何時の場合でも。人間心というものを無視して行く。そして神情一筋になら、生き貫いた所に私の信心があるです。その期間というものは矢張りだから、義理も知らなけりゃ人情もない、まあ言うならば「人非人」とまで言われる様な所も通りましたけれども、それは神様の仰せに背かないと言う生き方だ。
だから人情が強くて行き届くと言う事は素晴らしい事ですけれども、信心はそれを無視して行く稽古です。そして神様の方へその神経が行き届くようなおかげを頂いた時に、私は神徳に触れられる。その神徳に触れられて初めて、なら大きな意味においての真の神徳というか、神徳の中に生かされてあると言う事が本当に有難くなって来るのです。いかに神徳の中に生かされてあると言う事が判っておっても、有難いというものがないならば、それは大した値打ちはありません。
それはなぜかというと人間心とか学問とかと言った様なもので、そういう有難いというものを冷却してしまう訳です。そこで成程お道の信心は「馬鹿と阿呆で道を開け」というふうにも表現される訳なんです。教祖様も「学が身を食う」というふうにも言うておられます。少しばかりの学問が、却って、おかげを頂かれないと言うのです。「此方は無学でも、皆がおかげを受けておる」というような、だから、学問があると言う事が、いけないと言う事じゃないけれども、真の神徳を判らして貰う。
頂いての学問であったら、鬼に金棒だというふうに思います。昨夜皆さんもご承知のとおりに、末永先生と公子先生の結婚式のことについて皆さんが色々と心使うて下さる。昨日は美容師の方が貸衣装の方を連れて、衣装合わせに来て下さった。それが丁度昨日の朝、桜井先生の奥さんが、今度の二人の結婚式の事について、お夢を頂いてあるお届けが昨日の朝してあった。それには『黒衣姿、黒衣で、先生同志ですから、黒衣というのはこの黒い着物のことです。奉仕着のことです。
黒衣で結婚式をするような心掛けで』と言う事を頂いておった。私も今申しますようにどっちかというとそういう人情も大変強い方ですから、心の中に色々とこう言うなら迷いが起こるのです。本当によその娘さん達のように、本当にあの煌びやかな花嫁衣装も着けさせたい、またそれを見たいと思う心ともうそれこそ、神情一つでです。本当にこの人達がおかげを頂く為には、人が何と言うても一つ黒衣掛けででも結婚式をさせようとか、今ご本部ではそう言う事になっているそうですね。
けどもそれではあんまり可愛そうなと言う心と、二つの心がこう闘うわけです。同時に仲人さんも、大変行き届いたお方、佐田さん達夫婦ですから、言われると「ほんにそうですなあ」とやっぱりそれに傾くわけです。まあそう言う様な半分半分の様な心で、昨日あれがよかろう、是がよかろうというふうで、まあ決まりました後に、私はその事のお粗末ご無礼のないように、お願いをさせて頂いておりました。
そしたら頂く事がね、昔あれは何て言う歌だったでしょうか流行歌に『娘暮しは茶屋暮し、茶碗酒なら負けないけれど、人情絡めば弱くなる』というあの歌を頂きました。もう本当に神様それどころじゃございませんと言う訳なんです。ならこれを公子先生にするならば、本当に娘盛り、七年か八年になりましょうか、娘盛りを言うなら茶屋暮しじゃなくて教会暮しであります。
他の兄弟達姉妹達も皆えんに付いた。しかもそれぞれの躾けもしてもろうて人並みの事が出来た。ところが教会暮しであるばかりに、お道の教師になったばかりに、そういう例えば華やかな夢というものは、どうでも捨てなければならない。これは末永先生にも言える事なんです。言うなら夢の多い青春時代というものをです。言うならば教会暮しそれこそ「茶碗酒なら負けないけれど」と言う事は皆さんもご承知の通り、二人の者の修行振りというものがです。
もう本当に本気で修行しなければ出来まいと言う様な修行にも取り組んでおる。茶碗酒というのは、有難き勿体なき、恐れ多きと言う事だと思うです。そういう信心には誰にも負けも劣りもしないのだけれども、この人達二人の場合は、取分け人情が絡むと弱くなるという質(たち)なんです。非常に人間心を使う。だから言うならば非常に気の利いちゃる、行き届いちゃると言う事にはなります人間の方から見ると、それは是は二人に言える事です。けどなら皆さんの場合だってです。
本当に人間心の強い人はですね。本当におかげ受けられんです是はもう。不思議なくらいに受けられんです。信心は判ってもおかげは受けられんです。だから信心とはそういう人間心を愈々一遍捨てなければです。ここで言われる所の、人間心の反対の神心というものは育たないです。真の神徳に触れられないです。私もどちらかと言うなら、末永先生や公子先生にも負けない位な、言うならば自分は本当に気の利いた商売人で通ってきたです私も。けれどもやっぱそれを捨て切った所に。
私の信心があると思う位です。けれども周囲からそれをちょっとこう言われるとです。「ほんにそうでもあるなあそうなあ」と言う事にもなってくる訳です。仲人して下さる佐田さんの前に、結納金やらの時の場合もそうです。佐田さんが言われるから「ほんにそれもそう、そげんふうにしてやりたいなあ」という気も大体あるとだもんですから、例えば、結婚するときの指輪を取り交わすとか言った様なああ言う事も、佐田さんに言われて、「ほにそんならそれもいっちょうかてましょうかなあ」と。
言う事にもなったし昨日も披露の時に、「芸者さんなんかどげんしなさいますか」と昨日言われたから、私が朝桜井先生のお知らせを頂いてなかったら、「そりゃどうでんこうでん雇おう」というたことになったでしょう。けれども「いやそれは今度はもう断ってもらいましょう。それは致しますまい」と言うて、まあ心を鬼にしてね、言うならば出来るだけ黒衣に近いと言う行き方で行こうと、まあそういう半分半分の、人情神情が半分半分の今度は結婚式のような感じがするんです。
だから本当に詫びる所は詫びてからの事でなからなければならんと思わして頂きましたがです。これは公子先生、末永先生だけの事ではありません。それこそ娘盛りを教会暮し、有難き勿体なきなら負けないけれども、その有難い勿体ないがです。少しばかりの人間心を使うために、スパッと冷却してしまうです。惜しいでしょうが皆さん。これは二人の事だけでなく、皆さんの場合でも同じ事です。
ずっと見てご覧なさい。本当に行き届くとか、取分け人間心の強い人はね、もう確かに有難く勿体なくになっておるのにも拘らず、それがおかげにつながらない、冷却してしまうのは、人間心を使うからです。本当にこれは私自身がもっともっと偉くならにゃいけないなあ、もっともっと本当に信心を頂かなければいけないなあ、と私は本当に思います。誰が何と言うたって、神情一つでスーッとやって行けれる様な私にならにゃいけないなと思うです。その点昔の先生方は偉かったなあと思うです。
久留米の石橋先生の御長女が唐津にお嫁に御出でられる時には、あの当時の事ですから、まあ信者さん方から沢山なお祝い、餞(はなむけ)やらも頂かれたそうです。けれどもそれを全部ご本部へ、娘さんが頂いておるのを全部取り上げてしもうて、お供えになったと言う事です。言うならば着の身着のままの様な状態で、唐津にやられたと言う事です。 (ここ中途でテープは切れています)
それまでは差程になかった唐津教会が、久留米のお嬢さんをもらわれたその時点から、スーッと御比礼が立ったと言われておりますから、それはその先生の生き方生き方もありますから、私はそうではないです。けれどもどこまでも矢張り、神情で行かなければいけない。そこん所は放してはならないと思うのです。だから本当に私は難しいです。ですから、こう行こうと思うとっても、周囲からポッと言われると「ああそれもそうだなあ」と言う事になってしまうのです。もう今度の結婚式に事は、人情と神情というか。
そこのへんの所に私自身くるしんでおります。欲でもなからなければ、でもない。その次に「欲得にふけりて身を苦しめる」と言うが、欲得で苦しんでいるのじゃない、神情と人情で苦しんでおる。「信心する人の真の神徳を知らぬこと」折角信心させて頂いてです。有難き勿体なきが育っておっても、それが言うなら人間心を使うために、スパッと冷却してしまって、人情絡めば弱くなってしまう様では、ここでは大きな一つの勇猛心を振り立てて。その人情を振り切って行かねばいけない。
いやそうでなからなければ、神徳に触れて行くことは出来ません。神徳を頂く事は出来ません。真の神徳と言う事は、所謂わが身は神徳の中に生かされてあるという、天地の御恩恵の事をです。是は信心があろうがなかろうが受けておる。その御神徳その御神徳を本当に、御神徳として本当に有難い、勿体ないで受けれる心というものは、先ず自分が神徳を受けなければならない。知っただけではない。神徳を受けなければならない。神徳を受けるためには、神情一筋で行かなければ神徳は受けられない。
どうぞ。